昭和52年11月13日 朝の御理解



 御理解 第58節
 「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」

 神様が見通しであり聞き通しである。そう言う神様に日々お守りを頂いてお互いの信心を進めておるわけですから、信心のいよいよ根本になるところがね、その神様の祈りの中に、お懐の中に私共が生活をさせて頂いておるんだと言う事を信じれれる様になると言う事が信心だと言う事です。ですから、その神様の見通し聞き通しの中にある私達ですから、どう言う事を例えば言われましても、またはどう言う事が起こっても、腹を立てるとか、驚くことのない信心が鍛えられてくるわけです。
 どんなことを言われても、起こっても驚かんで済み、腹を立てんで済む。そう言う世界が、神様と私共が一つになった世界です。先日宮崎支部のお祭りの時に、帰ってからなんか網さんのお宅に「神人一致」と何か書いた額が、巨雷と言う人が書いたと言うのが掛かっとった。「そんな違う。そりゃ西岡先生の事じゃろう」と言うて私は思いましたことでしたけれども、「神人一致」とはそう言う世界に住んでおる人を「神人一致」と言うのだと思うです。
 どんな事を言われても、どんな事があっても驚かんで済む。腹を立てんで済む。ですからそう言う「神人一致」の世界に住まわせて頂くと言う事。だからねお互いの信心目標と言うものがね、そう言う所に置かれて行かなきゃならん。それは勿論私共一生かかっても出来ませんかも知れません。けれどもね願いはそこに置かなければならん。言わば「生神とは、此処に神が生まれると言う事であって、皆んなもその通りのおかげが受けられる」この方ばかりが生神ではないと、皆んなもその通りのおかげが受けられると。
 「生神とは此処に神が生まれると言う事であって」と言う、その心に生まれて来る神様、その神様と天地の親神様とは一体である。金光教の信心がいわゆる「総生神を目指す事だ」と言われる。「生神を目指す事」それはそれこそ「磨いても磨いても身が鉄ならば、時々は浮気の錆がでる」と言う唄の文句と同じ事でね、その研いて行っても研いても研いてもね、中々その人間臭とか、なかなか我情我欲が取れるものではないですけれども、それにへこたれずに、本気で研いて研いて研いて行っておりますとね。
 研き切って行く事が出来るのです。研き切ると言う事は、研いて行く内に段々無くなっていくんです。その研かれた、いわゆるその向こうにあるのが、生神であるいわゆる、神人一致の境地なんです。例えば「今日の盗人と言われても、乞食と言われても、もう腹が立って仕方がありません。私は無実の罪をかっぶとる」と言う様なお届けがあります。「と言うて、あんたが盗っとらにゃ良いじゃないの、あんたが貰うてあるかなきゃ、乞食じゃないじゃないの、神様はちゃんと見てござるから。
 そげん時、腹を立てちゃならん」と言う程度のところからね、これがすっきりと、言うならば腹は立たん、言うならば驚かんで済むと、そう言う所を目指させて頂く。盗りもせないものを盗ったと言われたり、濡れ衣を言わば着せられたり、言わば悪言雑言言われると言う様なことでもですね、言うならば神様が見ておいでの世界、聞いておいでの世界に私共は住んでおるのだからと、まあ自分の心を抑えたり、慰めたりして、神様一心に縋って行くと言う所から。
 まあ私が言っておる信心は、その進めて行くというのが、そう言う事のある都度に、私共が一段と神様へ一歩ずつでも近づいて行く事が出来るのですから、本当言うたら有難い事なんです。いわゆる信心の眼目と言うものがです。やっぱそこへ置かれると言う事がここに最後にある「しっかり信心の帯をせよ」と言う事だと思います。しっかり信心の帯をしとらんと、言わば御礼を言わねばならない様な事でも腹が立ったり、親愛の言うならば現れであると思う様な事にでも、驚いたり慌てたりする事になるのです。
 「どっこいおかげ」とこう受ける心なんです。どんな場合であっても「どっこいこれで力を頂くんだ」と言う頂き方なんです。だから信心お互い稽古をさせて頂いておる所は、だからそう言う所を今辿っている所でありましょう。そう言う例えば心で願っていく。あれは会津でしたかね、会津藩でしたかねあの白虎隊が出ました。今日御祈念中にそう丁度白虎隊が飯盛山でしたかね、で全部あの若いまだ十代二十代の少年達がね。
 それこそ国のために命を賭けて、いわゆる忠義一途の心がそう言う行動になったわけ、そしてまあ結果に於いては、負けてしもうて悲しい結果になったわけです。そう言うその絵を頂くんですよ。どう言う事だろうかと思うたら、今日この五十八節ですから、関わり合いがない様ですけれども、今日はいわゆる、高度な意味に於いての、五十八節。どんなことがあっても腹を立てんで済む。どんな事があっても驚かんで済む。
 それは私共が天地金乃神様、もう氏子可愛ゆいという一念に燃えてござる神様の御守護の中にあるんだと確信が出来る。そう言う神様の御守りを受けておるんだ。その神様が見守っておって下さる。聞き通しに聞いておって下さる中に、そう言う例えば濡れ衣を着せられたり、また乞食だと罵倒されたりと言うのですから腹は立たん。まあ神様の御都合に違いはないと言う風に頂けて、驚く事も言うなら腹を立てる事もいらんと言う程しの、いわゆるこの五十八節を、いわゆる高度な時点で今日は聞いて頂いとる訳です。
 だからそう言う心でです。私共が祈ること願うことはどう言うこと。最近合楽では、「願いの信心」と言う事が言われる。ただ自分が苦しいまぎれに「どうぞお願いします」と言うお願いではない。「お頼みする時だけ参ってきてすいません」と言うお頼みじゃない。自分の我情我欲を願うと言う願いの信心ではなくてです。もうその事柄は同じかもしれませんよ。例えば痛いなら痛い、痒いなら痒いと言う事を例えば願うでもです。どうぞ金銭のおくり合わせを願うでもですよ。
 願わずにはおられないと言う願いの信心と言われておるです。願わずにはおられない信心、ね、それは私共が金光大神の御取次によって拝ませて頂いとる神様は、天地金乃神様と言う方は、私共の親神様だということが、親と言うのが分かれば分かる程、縋らずにはおられない。願わずにはおられないと言う信心です。親であると言う実感がね、通うてくる、「成程親神様じゃなあ」と言う実感が通うてくる。そこから本当の親との言うならば出合いがあり、その出合いそこからそれこそ縋らずにはおられん。
 先日から私共の若先生が東京に行っとります。嫁の里が東京ですからそれで二・三日で帰れる筈のが帰れなくて、一週間もうあちらへ滞在しましたでしょうか。一番下のまあ半年位になりますかね、一恵と言う孫がおります。それでそれはおばあちゃんに預けて行っとりました。もうすぐ帰す積りだもんですから。それで造り乳ですからそれで結構まあおかげを頂きましたがです。帰って参りましてここにお届けに出て来ました。それで私の家内が抱っこしてからあの夫婦でお届けをしておりましたがね。
 その一恵がね母親の顔をじっとこうやって見るんですよ。まあ一週間も居らなかったから見忘れとるんですよね。けれどもじっと見よったらお母さんと言う事が分かったんでしょうね、そりゃもう変な顔をしてね、まあ言葉が出るならばね、「まあ自分を放うからかして」と言いたいところでしょう。もうそしてその首根につかまえてね放さない。もうその日一日は「誰が来い」と言うても行きませんでしたよ。親と分かったから、縋らずには居れなかったんです。
 だから私が皆さんに聞いて頂いとるのはね、縋るとか願うと言う事は、低級の信心の様に言う人がありますけども、金光様の御信心はね、天地の親神様であると言う事がね、実感を通して分かる。おかげを通して分かる。分かったところから、「成程親神様だなあ」と言うことがわかる。そこに縋らずにおられん、放れるわけにはいけんというね、そう言う信心が生まれて来るわけです。ですからもう親と分かる、そしてそこに「願わずにはおられない」と言う信心、そこでその願いなんです。
 どういう願いでもよい。金銭の送り合わせでも商売繁盛でも良い。体の丈夫、健康を願うでも良い、どう言う事を願っても良いけれども、その願いがね、天地に通うような願い、天地の親神様がお喜び下さる様な願い。例えてまあ申しますなら、私はいつも毎朝の御祈念の時に願わせて頂きますことは、「合楽教会大発展の御神願が御成就に相成ります様に」と言う願いを致します。合楽教会大発展の御神願、それはもう神様の願いだと言う事。だからそれが成就致します様に願うわけです。
 だから私の願いの様であって、実は神様の願いなんです。大発展合楽教会が大発展の御神願、千名助かるとが二千名も三千名も、いやもっと沢山の人達が助かっていくと言う事は、それはそのまま神様の願いであると同時に私の願いなのです。だから合楽教会が大発展のおかげを頂くと言う事は、教団全体が大発展をして行く事なんです。その教団全体が大発展を致しまして、合楽で言われる和賀心時代を世界に広めて行こうと言う、そう言う、言うならば世界総氏子が助かって行く事の為の言わば元になるのです。
 日本国の言うならば平和と繁栄を願います。一生懸命願います。天皇陛下を始め日本の国民全体が、立ち行きと助かりを願います。天皇陛下もやっぱり助かって貰わんならん。天皇陛下も立ち行って貰わんならん。だから天皇陛下だけではない。天皇陛下を芯にして、日本国民の全てがね、立ち行って貰わんならん。助かって貰わんならん。日本国はいよいよ平和でそして繁栄して行かなければならない。これは日本国民として当然願わなければいけない事だと思う。
 しかも日本の繁栄と平和はそのまま世界の繁栄と平和につながっていく様な繁栄でなからなければ、日本さえ良ければ良いというのはいけん。今の教祖様が「自分の庭先を掃くと言う事は、世界の一部を掃くと言う事だと」こう言っておられる。「世界の一部を清める事だ」と。それでいて自分の庭先を掃く時、こうこうして掃くとです、両端に散らかってしまうでしょうが。自分方の前だけ良かれば良いと言うのじゃない。そこにちゃんとごみも取らなきゃいけん。
 それを隣の方へはねくりやって掃くような人がある。これでは自分方の前を清めるという事は世界を清めると言う事にはつながらない。私一家が助かると言う事は、私だけが助かればよいというのであってはです。私の助かりが教団の助かりになり、世界の言うならば助かりにもつながって行く様な内容でなからなければならないと言う事なんです。願いと言う事はそこなんです。
 そこで私は今日、その会津の白虎隊のあれを見てです。まだ年端もいかん十いくつかの方達が、それこそ会津藩のために命をとして敵と戦ったと。もう忠義一途ですから、この人達が本当に、感心といえば感心だけれどもです、もう「忠義」と言った様な事はもうほんとにこんなつまらないものはないと言う事です。殿様のためにはもう、天皇陛下のためにはもう命も惜しまんと言った様な心はもうこれはもう大変な、信心で言うたら間違った考え方なんです。
 成程あの大東亜戦争の時に、三代金光様の祈りというものは、どこまでも「世界真の平和であった」ということですね。日本が勝てばよいと言う事じゃない。天皇陛下のために忠義に命まで落としてからどれだけの功徳があるか、なあんも功徳はなか。それはね願いが祈りが小さいからなんです。そこでそれなら私共がですよ、それならまあここに久富建設がおります。
 「久富建設が大発展のおかげを頂きますように」と言うだけであったら、それは会津藩、どんなに血みどろの戦いのような、その商売をして勝ち抜いて財が出けた。名をなすことが出けたと言うてでもです。それは大したことない。久富建設というそれがです。いよいよ久富建設の発展繁盛がそのまま合楽教会の大発展につながると言う事になると、これは世界につながる。私がそう祈ってるんだから。
 「合楽大発展の御神願成就になりますように」その合楽教会の大発展はそのまま、言うなら世界の発展にもつながることためですから、お互いの言うなら会社なら会社、商店なら商店の繁盛を願ってもよいけども、それはどこまでも合楽教会の発展につながることのために繁盛でなからなければならんと言う事に成って来る時にです。素晴らしいことになってくるとです。
 例えば、佐賀の葉隠れとか、もうとにかく「武士道とは死ぬことだと分かった」というようなあれがあります。もう鍋島の殿様のために死ぬることてんなんてん、こげな馬鹿らしい話はない。日本のね、今までの思想というものがそんなに間違っておったと言う事なんです。これは日本だけではない。世界中にそういう例話は沢山あります。言うならば忠君愛国とかね、愛国の精神とか言いますけれどもです、愛国は良いです、けどその愛国は全世界を愛するという心につながらなければ駄目だと言う事なんです。
 そんならもう世界の平和だけを願ときゃええというのではなくて、実際は痛い痒いのことから、自分のいうなら健康のことから、自分の家の繁盛発展のことから、お百姓さんでいうなら豊作のおかげを頂くと言う事から、願わなければならない、願って良いのですけどその願いがです、いわゆる合楽教会大発展の御神願につながるところの願いでなからなければならない。こういう願いになってくる時にですね、討ち死にやらせんで良かろうと私は思うですね。神様の願いに直結するんですから。
 「願いの信心が最高の信心だ」と最近合楽で言われておりますが、お互いの願いというのが、どうでも自分が助けて貰いさえすりゃええと。私の助かりが、言うなら世界中の助かりにつながっていく様な願い、私が儲けだすと言う事がです。日本国中が儲けだすことにつながる、世界中が豊かになることにつながるという、言うなら大精神を持っての願いでなからなければいけない。その中途半端な願いでよしおかげを頂いても、それこそ会津の白虎隊じゃないけれども、結局そういう結果しか生まれてこない。必ず。
 ですからね永遠の助かり、そういう願いが出来れる様な信心からです。またそういう信心がです。「しっかり信心の帯をせよ」と言われる、しっかり信心の帯をしてみて、初めて分かるところだという風に思います。そういう信心を目指さして頂いて、言わば願いが高度の願いになってくる時です。しかたもないことで腹を立てんで済む。驚かんで済むという信心もまた生まれてくるわけなんです。
 支那に韓臣という人がおりました。大望を抱いておる人です。所がある時酔狂な飲んだくれた人達が韓臣を大変馬鹿にして「自分の股をくぐれ」と言うたときにです。黙って股をくぐった。韓臣の股くぐりという話があります。神崎與五郎がねいわゆる馬喰牛五郎ですか、言うならば罵倒された時に、詫び証文を黙って書いて差し出した様なものです。それにはね例えば、末は天下を取ろうかという程しの大望を持っておる。
 末はいわゆる忠臣蔵に出て来るところの、いわゆる仇討ちという大きな心願、願いを持っておるから、手前の小さなことでも腹が立たなかった。それを平気でやってのけられた。ですから今日の御理解は、それも今日の御理解から言うと小さい事なんですけれども、願いを大きく持つと言う事はね、いわゆる大事を前にしての事ですから、それを心の中で辛抱する事もできるし、そこを難なしに腹を立てんで済ますことも出来る。言うなら大人と子供のような考え方がこんなに違ってくるのですから。
 言うなら今日の御理解はどう言う事かと言うと、なら私も小さい自分の痛い痒いの事から願います。私の健康も願います。自分で。けどもその願いはです。私が健康であると言う事は言うなら、世界総氏子の助かりと言う事につながるのですから、願わずにはおられないと言う事になる。皆さんが例えば商売繁盛を願わして頂いても、その商売繁盛は合楽教会大発展の御神願につながらなければならない。
 合楽教会大発展の御神願につながると言う事は、そのまま教団の繁栄だけではない、世界総氏子の助かりにもつながるという程しの事ですから、まず手前の合楽に御神縁を頂いておる御信者の皆さんのすべてがです。皆さんの例えば商売なら商売が大繁盛のおかげを頂く。けれども、その繁盛はどこまでも合楽教会大発展の御神願につながるという様な願いになってくる時に、これは高度な事になってくる。
 言うならば、煎じつめると世界天下国家のことにまでつながってくる。そういう願いがです。本気で信心の帯をして出来てくるならばです、小さい事なんかには腹立てちゃ馬鹿らしかことになってくるです。おかしゅうなってくるです。それもその根本は神様が見ておいでだから聞いておいでだからという世界に住まわせて頂くと言う事。同時になら今日言う、私はもう一つ聞いて頂きたいのは、天地の親神様という実感が私共と通う。通うところから親と分かる。
 分かるところから神様に縋らずにはおられない。願わずにはおられない。どう言う事でも願わずにはおられない。これからそこまで行くでも願わずにはおられない。先日もお話しするように、まだ五十位で隣村の方が中風がでた。お届けに来た。さあそのハンドルを持ったまま出たんだそうですが、自分でハンドルをこうしようと思ってもそれが出来んのです。してみるとハンドルをこう握る時にです。どうぞ途中で中風ども出らんことやっぱ願わにゃいかんわけです。
 願わずにはおられない。平気で車に乗る。そげなことじゃやっぱ事故が起こる時なんかはそういう時です。そこまで行くでも、言うならば願わずにはおられない。願わずにはおられない。それは親神様であると言う事が分かるから願わずにはおられないのです。そこでその親神様と分かるためにです。親神様の心が分からにゃいけん。でここで御理解を皆さんが聞いて頂くのは、言うならば天地の親神様のお心を、皆さんに聞いて頂いておるのです。「ああそうかな成程」と分かるとは、まだ実感じゃない。
 そこで神様のそのお心をね、一つ本気で大切にする事なんです。それを合楽理念では、「成り行きを尊ぶ」とか「大切にする」とこう言う。神様は例えばここにお祭りしてある神様だけが有難いのではない。神様の御働きそのものが有難いのだと分からせて頂かなきゃならん。そこでその成り行きを本気で大事にする。神様の御物言うなら水一掬いでも一粒のお米でも、押し頂く様な心持ちになる事を、例えば行の上に日々信行に伴うた、そういう生き方を身につけていくと言う事は、どう言う事になると思うですか。
 神様の御働きを大切にする。神様の御物を大事にする。神様がね、喜びなさらん筈がないわけです。これは親神様を親神様と実感がでける。実感がでけると縋らずにはおれないという信心が生まれてくる。そしていくら縋ってもいくら縋ってもいいんだけれどもです、人間の身のことですから、どこにお粗末が御無礼があるやら分からんけれども、神様はでけんところはおかばいにおかばいを下さって、出来んけれども出来たかの様にしておかげを下さる、親子だから。
 子供の中に例えば、まあ恥ずかしい事をした子がおるとしましょうか。それに親が「家の息子はこげな恥ずかしい事してから」ち、吹聴して回りゃせんでしょうが。もしそんな恥ずかしい事でも子供がしたならば、それを本当に親はかばわれるなら、出来るだけかばいたいのが親心なんです。私共の信心でもそうです。出来たかの様にあっても、中々生身をもっておるから、お粗末御無礼だらけですけれども、そのお粗末御無礼な私を神様がいかにも出来たかの様におかばい下さって、おかげを下さる親神様だから。
 だからどうでも、親と言う事が分からないけん。ためには親の働き親の物をいよいよ大切に尊ぶと。神様の言うなら起きてくる自然の働きそのものを、神の働きと分からせてもろうて、それを尊ぶ、押し頂く生き方、成り行きをいよいよ大切にさしてもらうという生き方を身につけていくところからです。「成程親神様じゃなあ」という体験がそこから次々と生まれてくるのです。お神様を大事にするというて、お祭しておる神様だけを大事にしたっちゃつまらん。
 それでは言うならば、半分の信心です。同時に神様の働きと神様の御物を大切に尊ぶというところからです。親の物を大事にするのですから親が喜ばんはずはない。その喜びが私共が、もうここは言葉では言われんところ。親の思いと子の思いというものはです。もう言葉では現されない。言うならば情感というものが交流して、そこからこの親神様に守られておる私。「われ神と共にある」という実感が心の中に湧いてくる。そういう情感を以て、それなら願わずにはおられないことが沢山ある。
 だからどう言う事を願ってもええ。健康を願い財のことを願い、人間関係の色々な言うならば痛い痒いの事に至るまで、願わずにはおられない。そこから言うならば私共の願いが成就するのではなく、天地の親神様の願いが成就してくるわけです。神の願いと氏子の願いが一緒にこう成就していくというそういうおかげを受けたい。そういう言うならば、今日は高度な信心を聞いて頂いたわけですけれども、高度な信心は自分の事だん願われん。痛い痒いだん願われんと言う事ではないと言う事を、今日は聞いて頂いたですね。
   どうぞ。